※この記事は講談社文庫版の下巻の後半(33~44章)のみについて記述しています。
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調べたくなる言葉
◆イザベル・アジャーニ
イザベル・ヤスミン・アジャーニは1955年フランス・パリ生まれの女優。
1981年「カルテット」、1982年「ポゼッション」の2度、カンヌ国際映画祭で
女優賞を受賞。作中では、この車(マセラティ)どうしたの?
とユキに聞かれた「僕」は、冗談で、
泉に車を落としたらイザベル・アジャーニみたいな泉の精が出てきたと話した。
「イザベル・アジャーニ」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』
2018年7月27日 4:49 (UTC) URL : https://ja.wikipedia.org
◆ニキ・ラウダ
1949年オーストリア・ウィーン生まれの元F1レースドライバー。
フェラーリやマクラーレンで活躍し、
1975年、77年、84年の三度、チャンピオンに輝いている。
作中では、マセラティに乗って気分が悪くなったユキが帰りたいと言ったときに、
「僕」が「ここは東名高速だ。たとえニキ・ラウドといえどもここでUターンはできない」
というシーンが登場する。
◆バスター・キートン
1895年アメリカ・カンザス州生まれの喜劇俳優で、チャールズ・チャップリン、
ハロルド・ロイドと共に、三大喜劇王と呼ばれた。
身体を張ったギャグシーンを演じながらも、顔は無表情といった演技に特徴。
作中では、五反田の胃腸薬のCMでのクールな表情を崩さない演技を「僕」は、
バスター・キートン的おかしみがあると評した。
◆作中に登場する音楽たち(基本的には登場順。主なもののみ)
・ユキとのおそらくは最後のドライブ~家に帰るまでに聴いた音楽
■トーキング・ヘッズ「フェア・オブ・ミュージック」
トーキング・ヘッズは、1974年に結成されたアメリカのロック・バンド。
メンバーは、名門美術大学、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの
出身というインテリバンド。
「フェア・オブ・ミュージック」は、1979年リリースの第3作目のアルバムで、
チャートの最高位は全米21位。
■ラビン・スプーンフル「サマー・イン・ザ・シティー」
正確には聴いていた曲ではなく、口笛で吹いていた曲。
ラビン・スプーンフルは、1965年にデビューしたアメリカのフォーク・ロックバンド。
「サマー・イン・ザ・シティー」は、1966年のナンバーで、全米1位を記録。
・ドルフィンホテルでユミヨシと聴いた音楽
■マントヴァーニ・オーケストラ「魅惑の宵」
マントヴァーニは、1905年イタリア・ヴェネツィア生まれの作曲家、指揮者。
イージーリスニングの第一人者として知られる。
「魅惑の宵」は1958年のミュージカル映画「南太平洋」の主題歌。
ストーリー上の謎、ネタバレ
※お約束ですが、本編で語られていない以上、以下はあくまで個人の意見です。
◆「僕」がホノルルのビルで見た六体の白骨の謎
六体のうち、五体までは作中で「僕」が推測している。
鼠、メイ、ディック・ノース、キキ、五反田。
それでは、あと一人は誰なのか?
それを検討する前に、白骨となってホノルルのビルの一室に集められているのは、
どういう人たちなのかを考えたい。
僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。
入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。
(1章より)
「失われてしまったもの。まだ失われていないもの。そういうものみんなだよ。
それがここを中心にしてみんな繋がっているんだ。」(11章より)
この2つの引用からは、次のことがわかる。
「僕」の人生において、出口から出て行った人はもう戻って来られない。
ただし、羊男が「配電盤」のような繋げる役割をすることで、
「僕」は「失われてしまったもの」とも繋がることができる。
その繋がりが具体化されたのが、あのホノルルのビルの部屋ではないだろうか。
つまり、あの部屋は、「僕」にとって、「失われてしまったもの」たちの部屋。
ただし、「失われてしまった」時は、「僕」があの部屋を訪れた時点より過去とは
限らず、ディック・ノース、五反田の例があることから、未来に失われるべき人たちも
含まれていると考える。
上記の考えを前提として、六体目は誰なのか可能性を検討する。
候補者は「僕」にとって、まだ失われていない人ということになる。
可能性があるのは、ユキかユミヨシかのいずれかではないだろうか。
(羊男は、失われたものと失われていないものと「僕」とを繋ぐ存在であり、
従って、その両者の埒外の存在と考える。)
「あなたすごく良い人だったわ」と彼女は言った。どうして過去形で話すんだ、と
僕は思った。「あなたみたいな人に会ったのは初めて」(38章)
この引用箇所を根拠に個人的にはユキではないかと考える。
ユキは何かが見えてしまう/感じてとってしまう能力を持っている。
彼女がここで過去形で話した理由は、もう会えないとその直感で悟ったのではないか。
いやまあ、過去形で話してからも一回あっているけれど。
ただ、物語の後の世界では「僕」はユキと二度と会うことはなかった可能性が高いはずだ。
(ユキがその後直ぐに死んでしまったと言っているわけではなく、
ユキは出口から出て行ってしまったのでは、と言っているだけである)
◆「僕」が次第にユミヨシを強く求めるようになっていった理由とは
誰をも真剣に愛せなくなってしまってること。
そういった心の震えを失ってしまったこと。(11章)
これが物語当初の「僕」の状態であった。
そうなってしまった理由は、同じ章で羊男によって、次のように語られている。
「あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった」
「あんたは何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまったんだ」
つまり、「僕」はいろんなものを失ってきた結果、
誰をも真剣に愛せなくなってしまっている。
その「僕」がユミヨシさんを強く求めるようになったということは、
上手くダンスを踊り続け、羊男やキキらの力を借りて、
自分と世界とを繋ぎ合わせることができたという意味、と考える。
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